大三沢リッドルスタジアム跡 日本野球の「聖地・名所」に

戦後、建設された「リッドルスタジアム」での試合風景。プロ野球の試合では大勢の観客が詰めかけた(市体育協会記念誌より、撮影時期不明)

 戦後の三沢に、復興への希望の光を与えた野球場があった。その名は「大三沢リッドルスタジアム」。米軍人の名を冠したという当時でも珍しい球場では、プロ球団を招いた試合も行われ、さらに市民も汗を流すなど交流の場として知られた。日本野球機構などは7月、跡地である市公会堂を全国で150ある「聖地・名所」の一つに選んだと発表。野球愛あふれる地元の人たちから喜びの声が上がっている。

 日本野球機構や三沢市の資料、当時を知る市民の話を総合すると、戦争が終わってから間もなく、三沢基地設営隊司令のリチャード・リッドル中佐が関係者に球場の建設を命令。米軍従事者の厚生施設として、さらに日本人も利用できるよう基地の外に建てることを決めた。1949年9月3日、木でできた観客席が6、7列並ぶ野球場が完成。発案者の中佐の名がそのまま球場に付けられた。

 市制施行前の大三沢町と呼ばれた地に、最初で最後のプロ野球チームがやってきたのは、翌年9月27日。巨人、中日、広島、1年限りで存在した西日本パイレーツというセ・リーグ4球団が集まり「リッドル中佐プレゼント」と銘打った興業が行われた。当時の人口の5分の1に当たる5千人が集まり、スタンドが揺れに揺れた。試合では巨人主砲の「赤バット」川上哲治さんが本塁打を放つなど目覚ましい活躍を見せ、ファンを大いに熱くさせた。

 だが、球場自体の歴史は約10年に過ぎなかった。58年の三沢市制施行に伴い都市計画が浮上、スタジアムは解体を余儀なくされた。跡地には市民会館が建設され、やがて市公会堂となった。当時の面影を感じさせるものは、もう残っていない。

 「昔はよく草野球が行われていた。父が審判として駆り出されていたのを思い出す」。そう語るのは、球場近くに住んでいた市社会福祉協議会会長の黒田進二さん(86)。「グラウンドは土で、最低限の設備があっただけ。誰でも中に自由に入ることができ、仲間と一緒に遊んだのが懐かしい」と振り返る。

 市野球協会会長の堤喜一郎さん(76)は、こうした米軍との「縁」が、後の太田幸司投手を擁する三沢高校野球部の甲子園準優勝につながっていく-と語る。「当時、野球が大好きな米軍にはチームがたくさんあって、三沢の人たちは試合を通じて心の交流を深めた。そこで学んだ技術が、その子どもたちに受け継がれていったのは間違いない。三沢の野球は『リッドル』をきっかけに発展していったと言っていいのでは」と誇らしげに話した。

 今回の「聖地・名所」認定は、日本に野球が伝わり150年となるのを記念した日本野球機構などによる事業の一環。プロ球団の本拠地となっている球場や大阪・豊中市の高校野球発祥の地記念公園、大リーグで投打に奮闘する大谷翔平選手(エンゼルス)が高校時代にプレーした岩手県営野球場なども認定された。青森県からは藤本英雄投手(巨人)が日本プロ野球初の完全試合を成し遂げた青森市営野球場(ダイシンベースボールスタジアム)も選ばれた。

 「聖地・名所」を巡るスタンプラリーも実施中。詳細は「野球伝来150年特設サイト」へ。

リッドルスタジアム前で記念撮影する選手たち(市体育協会記念誌より、撮影時期不明)

日本野球の「聖地・名所」150選に入ったことを記念し、市公会堂前に掲げられたポスター

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