
8月2日の青森ねぶた祭開幕まで1週間に迫り、出陣をこれまで以上に心待ちにするねぶた師がいる。北村春一さん(44)は師の父蓮明さん(77)の日立連合ねぶた委員会を引き継ぐ形で、初めてとなる大型3台の制作に挑んだ。「寝る間を惜しみ、命を削った」3カ月間。24日に最後の3台目の台上げを終えると「やり切った」と空を見上げ、感慨に浸った。
「日立のねぶた、作ってもらえませんか」
参加50年超の企業側から打診があったのは、昨年10月。NTTグループ、県板金工業組合を受け持っていた北村さんにとって、尊敬する父が20年もの間担当してきた日立連合への憧れは強かった。
3台を手がける苦労は知っていた。父の元で修業した2010年夏、一緒に連日手を動かし、心身とも疲弊したのを思い出す。それを割り引いても自らのモットーである「人生は挑戦」を貫きたかった。「やります。やらせてください」。即答だった。
NTT、県板金、そして新たに引き受けた日立連合の3台は、同時並行で作業が進められた。通常の制作工程の3倍のスピードが求められた。ねぶた師デビューから15年。傍らで支えてきてくれた妻登志枝(としえ)さん(49)は体調が優れず、作業の時間も限られた。それでもプロとして納得いくものを作らなければならない。針金で骨を組んでもばらしまた一から作り直したこともあった。ねぶた小屋から自宅に帰るのは明け方。ピンク色の空を眺め、家で体を休め、午前9時に再び小屋へと戻る生活を繰り返した。睡眠時間は連日2~3時間。自らを追い込み、神経をすり減らし、体重はこの3カ月で10キロ近く減った。
今回、日立連合の題材に選んだのは「國引(くにびき)」。伝説の第3代ねぶた名人・佐藤伝蔵さん(1925~86)が1972(昭和47)年、同じ日立連合のねぶたで田村麿賞(現ねぶた大賞)に輝いた歴史あるテーマだ。「伝蔵さん作の、台車から武者人形が今にも飛び出そうな迫力を再現してみたかった」。今年は青森港開港400年。港が開かれ人と文化が行き交う地となったように、これからもたくさんの人々を引き寄せてほしいという願いも込めた、こだわりの大型ねぶただ。
20日に県板金、24日午前にNTTの台上げが行われた。そして同日午後、3台目となる日立連合の台上げには、100人以上の関係者が集まった。制作に没頭し、午前は疲労がにじんでいた北村さんの表情も柔らかくなった。妻登志枝さんは「十分支えられず、彼の負担は大きかったと思う」と夫の身を案じ、約1時間半の作業を見守った。
父が、そして過去のねぶた名人が経験してきた3台制作。覚悟を決めて挑戦した北村さんは「楽しむ余裕なんてなかった。苦しみが大きかった」と、重圧と責任を感じた心境を明かす。
「自分一人だけでは到底できなかった。いろんな人に支えられたおかげ。(3台とも)関わった何十人、何百人という人の力の結晶だと信じている。それぞれ個性も構図も違う。見てほしい」。近づく熱狂の夏に向け、胸を高ぶらせた。
「日立のねぶた、作ってもらえませんか」
参加50年超の企業側から打診があったのは、昨年10月。NTTグループ、県板金工業組合を受け持っていた北村さんにとって、尊敬する父が20年もの間担当してきた日立連合への憧れは強かった。
3台を手がける苦労は知っていた。父の元で修業した2010年夏、一緒に連日手を動かし、心身とも疲弊したのを思い出す。それを割り引いても自らのモットーである「人生は挑戦」を貫きたかった。「やります。やらせてください」。即答だった。
NTT、県板金、そして新たに引き受けた日立連合の3台は、同時並行で作業が進められた。通常の制作工程の3倍のスピードが求められた。ねぶた師デビューから15年。傍らで支えてきてくれた妻登志枝(としえ)さん(49)は体調が優れず、作業の時間も限られた。それでもプロとして納得いくものを作らなければならない。針金で骨を組んでもばらしまた一から作り直したこともあった。ねぶた小屋から自宅に帰るのは明け方。ピンク色の空を眺め、家で体を休め、午前9時に再び小屋へと戻る生活を繰り返した。睡眠時間は連日2~3時間。自らを追い込み、神経をすり減らし、体重はこの3カ月で10キロ近く減った。
今回、日立連合の題材に選んだのは「國引(くにびき)」。伝説の第3代ねぶた名人・佐藤伝蔵さん(1925~86)が1972(昭和47)年、同じ日立連合のねぶたで田村麿賞(現ねぶた大賞)に輝いた歴史あるテーマだ。「伝蔵さん作の、台車から武者人形が今にも飛び出そうな迫力を再現してみたかった」。今年は青森港開港400年。港が開かれ人と文化が行き交う地となったように、これからもたくさんの人々を引き寄せてほしいという願いも込めた、こだわりの大型ねぶただ。
20日に県板金、24日午前にNTTの台上げが行われた。そして同日午後、3台目となる日立連合の台上げには、100人以上の関係者が集まった。制作に没頭し、午前は疲労がにじんでいた北村さんの表情も柔らかくなった。妻登志枝さんは「十分支えられず、彼の負担は大きかったと思う」と夫の身を案じ、約1時間半の作業を見守った。
父が、そして過去のねぶた名人が経験してきた3台制作。覚悟を決めて挑戦した北村さんは「楽しむ余裕なんてなかった。苦しみが大きかった」と、重圧と責任を感じた心境を明かす。
「自分一人だけでは到底できなかった。いろんな人に支えられたおかげ。(3台とも)関わった何十人、何百人という人の力の結晶だと信じている。それぞれ個性も構図も違う。見てほしい」。近づく熱狂の夏に向け、胸を高ぶらせた。

