古代の秋田人、災厄とどう向き合った? 秋田城跡から探る

人面墨書土器。穢れを封じ込めて水に流したとみられる(秋田城跡の出土遺物)
 古代秋田の人々は天変地異や疫病とどのように向き合ったのか―秋田城跡(あきたじょうあと)など県内の遺跡から見つかった遺物や遺構からたどる企画展が22日、秋田市寺内の市立秋田城跡歴史資料館で始まった。8月29日まで。

 律令(りつりょう)国家の支配拠点・出羽柵(でわのさく=秋田城の前身)が現在の秋田市高清水丘陵に置かれた733(天平5)年以降、10世紀初めにかけて出羽国(現在の秋田・山形県)では飢饉(ききん)や地震、火山噴火などが相次いだ。これら災厄の終息を願って人々は祭祀(さいし)を行った。850(嘉祥3)年には占いなどを担当する陰陽師(おんみょうじ)が他国に先駆けて出羽国に派遣・配置されている。

 秋田城跡から複数出土した人面墨書(じんめんぼくしょ)土器は、甕(かめ)の側面に恐ろしげな顔を墨で描いている。中に息を吹き込み、ふたをして自身に付いた禍(わざわい)や穢(けが)れを封じ込め、水に流したらしい。

 祓(ばら)いの儀式に用いられた形代(かたしろ)は、人形(ひとがた)のほか矢羽根形(やばねがた)、舟形(ふながた)、馬形(うまがた)などがある。人形は自身の穢(けが)れを移して水に流したとみられる。舟形や馬形は供え物を神に運ばせるためとも考えられている。

 奈良の都では疫病や政変などを鎮(しず)めるため東大寺に大仏が造立され、困窮した者に米などを支給した。出羽国でも支給があり、秋田城跡からは「吉弥侯(きみこ)里(のさと)」から「秦根(はたね)」を届けた際の送り状(木簡)が出土している。秦根はショウガやサンショウなどを意味したとみられ、漢方として利用された可能性がある。

 9世紀前半の死亡帳(漆紙=うるしがみ=文書)には、ある一家のうち6人までが1年のうちに次々亡くなったと記録されていた。これほどの大量死は疫病や災害の影響がうかがえる。

 企画展では、払田柵跡(ほったのさくあと、大仙市・美郷町)や厨川谷地(くりやがわやち)遺跡(美郷町)、中谷内遺跡(五城目町)で用いられた祭祀具も展示。払田柵跡や秋田城跡から見つかった大地震の痕跡などもパネルで紹介する。

 会期中無休。入館料は一般210円、高校生以下無料。問い合わせは同資料館TEL018・845・1837

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